昭和のはじめ、勧進帳のふる里に安宅の関跡を訪れた与謝野晶子は、白砂青松の続く日本海を望んでかく歌い、また更に、
という歌も残して居りますが、木曽義仲の軍勢が京を目指して進撃したという道は、今も木曽街道と呼ばれてその名残りを留めています。
北陸小松、安宅の地は古来より港として栄え、源平にまつわる秘話伝承も少なくありません。中でも勧進帳の物語りは謡曲安宅や、歌舞伎十八番勧進帳によってよく知られて、ここを訪れる人影はたえません。
この石川県安宅の関において、ながく語り告げられる「弁慶」「義経」の主従絆の感動の物語をご堪能ください。
さて、今を去る八百年の昔、文治三年(1187年)の二月残雪を踏みながら越路をたどる旅衣篠懸(たびころもすずかげ)の十二人の山伏姿がありました。これぞ兄頼朝の追捕を受けた義経主従が奥州平泉へ落ち行く落魄の姿であったのです。
道で出会った旅人の言う処では、ここ加賀の国の守護富樫左衛門は安宅に新関を設けて殊に山伏に対する詮議が厳しいとのこと、そこで弁慶は土地の小童に扇を与えて間道を開き出そうとしましたが逃げられて失敗しました。止むなく義経を下賎の荷物運びの強力姿に身を変えて安宅の関にさしかかりました。
もとより富樫がこれを見逃す筈がありません。弁慶は東大寺再建のための遣わされた山伏であるからと必死に抗弁します。富樫は本ものかどうかを試すため勧進帳を読むように求めます。弁慶は内心驚きながら、それでも平然として笈の中から一巻の巻物を取り出すと、高々と読みあげました。
朗々たる弁慶の声に松籟も和して聞く者の心を強く打ちました。
しかし富樫はさらに山伏の修験道の質問を次々に弁慶に浴びせかけ、本当の山伏かどうかを見極めようとします。問答はまず修験道の由来から始まり、山伏姿への質問、兜金(ときん)、篠懸(すずかげ)、金剛杖(こんごうづえ)、太刀などを持つ理由が問われます。
富樫の質問は修験道の深奥に入り次々と難問を投げかけますがこれを一つ一つ明快に答えて切り抜けます。どんな質問にも即座に答える弁慶を見て一行を本当の山伏と判断して通行を許します。
ほっとして通り過ぎようとする一行の最後に従う強力姿を番卒の一人が見とがめて富樫に知らせます。義経らしいと言うのです。
これで義経の運命は窮まったかと思われました。ところがこの時弁慶は思いもよらぬ行動に出ました。満面に怒りをたたえて強力に向かって罵詈雑言を浴びせ金剛杖を振りあげて打ちのめします。家来が主人を打つなどということは絶対にないことです。
とうとう富樫もその疑をはらし漸く無事に通ることができました。義経を打つ弁慶の胸中の苦しみはどんなであったでしょうか。
こうして虎口を脱した思いの一行は奥州を目指して更に苦難の旅を続けるのでした・・・・。
いま、安宅を訪れますと、秀麗白山を東に望み、梯川が日本海に注ぐあたり、在岸の小高い松山、二堂山に霊現あらたかな安宅住吉神社が鎮座ましまし、その南後方に安宅の関跡があります。
松林の中に関跡を示す石碑の下に当代一流の彫塑家、都賀田勇馬の作る弁慶、富樫の銅像が日本海の斜陽を背にして八百年の昔語りをしているようであります。
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